子供のころの思い出5
このたび“全世界情報”のカテゴリーにも分割を試みましたが、よく考えてみるとちょっと違うかなという気もしてきていて、カテゴリーについて今ちょっと迷っています。まー、しばらくはこのままにしておき、再考した結果“マレーシア情報”1本に再び絞ることになるかも知れません。一応ご報告まで。
小学校時代の自慢話?として、一つご披露しておきたい話があります。
今まで誰にも言ったことはないのですが、小学校の4年生か5年生のときの話です。同じクラスの女子に告られたことがありました。次のような会話がありました。(○君とは私のことです。)
xx女子「○君のこと好きな子の名前知りたい?」
私「ウン、知りたい。」
xx女子「xさん、yさん、zさん、それとAさん、Bさん、Cさん。もっといるかもしれない。」
私「ええ! そうなの?」
xx女子「この中で意外に思った人いる?」
実はこの中に私がひそかに好きだった人がいたのですが、その人を“意外”だといってしまうと、心の中が見透かされると思ったので、あえて本命以外の人の名前を私は「zさんはありえないと思った。」と答えておきました。
xx女子「どうして意外だと思ったの?」
私「だっていつもくすぐったりいじわるをしてくるから。」
xx女子「ふーン、そうなんだ。実は私も○君のこと好きなんだ。」
翌日、クラスの中で、「○君はzさんが好き。」という噂が広まったことはいうまでもありません。
さて、中学校時代はほとんどの人が進学に向けて猛勉強している中、自分としては、しっくりとするものがなく、勉強らしい勉強はしませんでした。
学校周辺に住んでいる人はどんどん郊外に移動していきました。小学生のころはまだマーケットや個人商店などが千代田区のいわゆる山の手と呼ばれた地区にもあったのですが、それらは次々に取り壊されていき、ビルが建ち、そこにいろいろな会社が入ってきました。住む空間は完全に破壊されました。
小学校の同窓会は卒業後4年ほどは開催できていましたが、その後は連絡が付かなくなり今は全く音信不通となっています。
中学でも事情は同じで、しかも小学校の通常の進学ルート以外からもどんどん生徒が入り込んできて、その結果、越境入学者が大半となり、生徒数は我々の年で1学年に500数十名、1学年のクラスの数が、1年上の年次ではA組からK組まで11組、我々の年次でA組からJ組まで10クラス編成で、1クラスが55人ほどいました。
どこのどんな人たちか、どこに住んでいるのかもわからない人たちが周りに一杯いて、高校受験に向かって競い合っているという感じでした。中学校は1年終了時にクラス替えがあり、2,3年は同じクラスでしたが、このような状況では一体感も生まれるはずもなく、卒業後同窓会というものをやったかどうかも記憶にありません。
私は、受験勉強にも力が入らず、周りに適当に合わせて順応しているように振舞っていただけでした。東京砂漠という言葉がぴったりの世界だった中学校時代でした。
本来の生徒となるべき人数が激減してきたため、我が中学は廃校になるという噂が一時流れましたが、出身者に有力者を輩出してきたためか、廃校にならずに現在も隆々と運営されているようです。インターネットで見ると現在、中学校の同窓会という組織はあるようですが、同窓会には誰でも入れるというのではなく、「会員の推薦が必要」というようになっていました。これってナンなの?という感じです。
次回は高校時代について書いてみたいと思います。