大学時代2

大学時代の就職活動について書いてみたいと思います。


早田刈りという言葉は今では殆ど聴きませんが、当時はよくこの言葉が使われていました。これは大学の3年生のときに就職先が決まってしまうという意味です。


企業側としては早めに優秀な人材を確保したいという動機があり、そのため他社に先駆けて募集活動を行いがちになります。学生側は企業の募集活動が非公式ではあっても行われていることから、会社訪問と称して企業を就職活動のため訪れるという慣行がありました。


企業側には訪問してくる学生に対応するため、人事部以外からも臨時に社内から人材を選抜し、早田刈りを推進していました。そのころから既にあったリクルート社が企業の情報記事を集めた分厚い本を学生の住所に送ってきて、学生に企業訪問を促し、早田刈りの触媒となっていました。就職活動は完全な売り手市場で、会社訪問して大学名を言うと、豪華な昼食の接待を受けたり、自社製品のお土産を渡すところもありました。「就職試験を是非受けてください。」などといわれますが、そうは言っても最終的に試験で落とされる場合もあり、当然ですがこの大学の生徒ならばどんな人材でも受け入れるということは決してありませんでした。


大学3年生の秋ごろから内定者が出始め、事実上4年になる前に就職先が決まってしまうという状況で、我々の仲間の中には10数社の一流といわれる企業から内定をもらったという人もいました。彼は最終的には4年生の6月に実施される公務員試験を受けて、公務員になりました。当時人気の就職先は銀行、商社で、メーカーは全く人気がありませんでした。


私は教養学部時代のクラスの中のグループの一つの中にいましたが、仲間の就職先の内訳は大体次のような感じでした。司法研修所(つまり司法試験合格者)2名、公務員2名、銀行2名、商社1名、メーカー3名、大学院1名。


大学院に進んだ彼は、我々の中の論客で、思想的にも我々をリードしてきた人物でしたが、司法試験に合格せず、やむなく大学院に進んで再起を期すという感じでした。


この仲間たちは今でも付き合いが続いており、年に一度は集まっていますが、私はここ13年ほど継続して海外にいることもあり、ここ13年でこの会に出たのは3年前の1度だけになっています。


そのとき大体みんなの年齢は65から66歳になっていましたが、弁護士になった2人は関西で弁護士事務所を開業してそのときの会には欠席、公務員になったうち1人は政府機関の一つに天下りしていたところ、事業仕分けの攻撃を受け、事業団自体の存続の危機に直面したが、何とか生き残っているとのこと、あと1人はやはり天下りで1部上場会社の役員、銀行に行った2人のうち1人は銀行からの天下りで会社の役員、1人は完全リタイヤー、商社に就職した私も完全リタイヤー、メーカーに行った3人のうち1人は退職して子会社の役員、もう一人は仕事を継続中でした。(メーカーに行ったうちあとの1人は実は早い時期に亡くなっています。)大学院に進んだ1人は某国立大学の教授でしたが、今は某私立大学の教授になっており、同じ大学で15年間、教授の地位にあると自然に名誉教授の称号を与えられるとか言っていました。ただし、名誉教授というのは称号だけで、給与が支払われることは全くないそうです。完全リタイヤーは私と銀行に行ったもう一人だけという状況でした。大学時代の友人たちも、高校時代のそれと同様に貴重です。

次回は就職してからの話になりますが、まだ生々しい部分もあるので、何をどのように書いていくか検討してみます。

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