人権の日

12月10日は世界人権デーだそうですが、その集会でのマハティール首相の長女である人権派の社会活動家のダティン マリナ マハティールの演説を紹介します。演説内容としては、抽象的でよく把握できない部分もあり、何でもっと簡潔に平易な言葉で語らないのかと思いますが、わかりにくくしゃべるのがわかりやすく語るよりも高等で、自分をよく見せられると考えているようです。記事原文は次のURLを参照してください。https://www.thestar.com.my/news/nation/2019/12/10/msia-still-holds-to-hierarchy-of-humans-deeming-some-as-superior-to-the-rest-says-marina-mahathir#zmgTwo66l0Gprb4Y.99


Quote
“マリナ マハティール:マレーシアには誰かが他人よりも勝っていると考える階層意識がまだある”
12月10日の世界人権デーの演説で、ダティン マリナ マハティールは次のように演説しています。


「ただ単に人種、宗教、性別故に、他人よりも勝っていると考える“人間の階層”意識が、マレーシアにはまだあります。性的多様性でさえ不適切だと考える人さえいます。


たとえ小さくても、人間を分類するために、ある人間をネズミかゴキブリと考えることは生きた例です。この考えが中に入り、拡散すると、いわゆる劣った人間に対する暴力が受け入れられるか、少なくとも無視されます。女性、子供、性的少数者は迫害され、殺されさえしますが、このような犯罪はや事件はすぐに忘れられます。前の植民地主義者でさえ、多様性を必要なものとして受け入れ、変革、変化を試み、進んでいます。


我々はビクトリア以前とビクトリア時代の規範に固執し、これらのルールは我々のものであるだけでなく、神が起源であるとさえ、信じています。もし、我々が前の植民地主義の当事者が我々に押し付けた価値、ルール、法にまだとらわれているならば、一体いつ我々は真の自由になるのでしょうか?


会社、組織、学校、大学は、労働力、戦略、カリキュラムが今日の社会の現実を反映していることを確保しようとしています。


私の過去に英国で学んだ個人的な経験では、学校の教科書を再植民地化する大きな流れがあり、その結果文学や創造的書き物をする学生は、白人である西洋人の作者が書いたものだけを学んでいることはありません。出版の世界も同じで、黒人、アジア人、中東の作者を現在求めています。なぜならば、これらの声や見方はただめったに聞かれたり、読まれたりしないからです。


歴史は、従属された人々の観点で書かれなければなりません。というのは、彼らの見方は以前のものと同等の価値を持っているからです。見方の同等な認識はゆっくりとしたプロセスです。大きな抵抗が依然としてあります。しかし、すべての人間は等しい価値を持っており、同じように重要だという事実を軽く見ています。


人権は普遍であり、人権の擁護者の仕事は、人権を十分に享受できない人々も享受できることを確かなものにすることです。人権を要求する人々は他人よりも多くの権利を要求しているのではなく、他人と同等の人権を要求しているだけなのです。」


Unquote


自ら尊称であるダティンを名乗りながら、人権は同等であると説く姿勢は説得力を持たないと思いますが。


人権を主張するなら、まず、マレーシアの爵位の廃止を説くのが先決ではないでしょうか?

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