大学時代

大学に入学したのは1968年です。入学時には全員が教養学部に入り、教養課程終了後に、専門学部にそれぞれ進学していくのですが、法学部と経済学部への進学予定者の場合は一くくりで、外国語の選択にあわせてクラス分けされます。大体1クラス50名です。法学部と経済学部への進学予定者は合計で1,000名で、全体では20クラスということになります。このクラスが専門学部に進学した後も、大学生活の基礎になります。


4月に入学して2ヶ月あまりたった6月に、医学部のインターン制度に係わる紛争を契機として、医学部がストに入り、ロックアウトした学生を排除するため、機動隊が学内に導入されたことから、これに抗議して、学生自治会が主導して同月から全学ストライキに入りました。これがそれから長期に渡り続いた大学紛争(大学闘争)の始まりでした。


ほとんどの人はそれほど高い意識は持っておらず、「夏休みが少し早くなるだけ」という意識でスト突入に賛成してしまったというのが実態ではなかったかと思います。


夏休みが終わってもストは解除されず、クラス単位でストを解除すべきかどうかの話し合いが継続して行われました。我々の場合は、クラス50名が、ノンポリ、日本共産党が主導する民青、社青同、革マルなどの影響を受けた全共闘シンパの大体3つに分かれました。人数から言うと民青系が12名ほど、全共闘系が16名ほどで、ノンポリが多数派でした。学生自治会は民青が握っていましたが、学生ストを主導していたのは全共闘シンパで、学外から活動家をそれぞれ導入して勢力を拡大しており、ノンポリ派は積極的にこれらを排除してストを終結しようという動きまでにはなりませんでした。


翌年1月になってやっとストが解除されることになるのですが、約7ヶ月に渡る全学ストライキは言うまでもなく、大きな影響を我々だけでなく社会にも与えました。


学生の社会に対する反乱は日本特有のものではなく、世界各地でも発生していました。後日、いちご白書などで、映画化もされました。第二次大戦後の社会的風潮やベトナム戦争の影響などが背景にあったのかもしれません。


スト中に行っていたことといえば、クラスの有志での読書会、討論、マージャン、トランプなどのゲームでした。昼ごろに学生のたまり場であった学館と呼ばれる生協の食堂に隣接したロビーに三々五々集まり、それからそれぞれのグループを作って移動していくという感じでした。サルトルに代表される実存主義に関するテーマが読書会の中心でした。


この時期の思い出深い場所は学校近くのケンという喫茶店、それから雀荘、渋谷駅のセンター街にあったウイーンという喫茶店、渋谷駅裏のプランタンという喫茶店です。


渋谷のウイーンではトースト、ゆで卵、コーヒーがセットになったモーニングサービスが当時としても安めの通常料金の半額の40円で、そこで読書会や、討論などで1日過ごし、午前中に入ってかんばんまでいたということも1度ならずありました。コーヒーのお代わり等もせずモーニングセットだけで長時間にわたって居座り続ける我々に対して、ウエイトレスは全く迷惑そうなそぶりも見せず、水だけを時折注ぎに来てくれました。


渋谷のプランタンは銀座にもあった同じ名前の系列店で、値段はコーヒーがちょっと高めの150円、街頭で割引券をもらって行ったものです。


ストで授業がなかった代わりに、友人たちとの討論など、授業を超越するいい経験ができたと今では思っています。


今では、少なくても東京には、長時間いられる喫茶店というのは殆ど姿を消してしまっています。安い料金では投資額に見合わないし、高くすると客が来ないということでしょうか。ビジネス モデルとして存在できなくなった業種ということでしょう。

次回は専門学部に進学後のことに触れてみたいと思います。

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