2017年8月のブログ記事

  • KLとイポー

    KLとイポーを比較すると概略こんなところです。(ウィキぺディアなどから抜粋した情報も含みます。) 人口はKL市内だけだと180万人、KL都市圏(大KL)で考えると720万人であるのに対して、イポーは76万人弱で、大体10分の一の規模です。 イポーの人種別構成を見ると、中華系が70%、マレー系17%... 続きをみる

  • KLでの自由な生活

    会社から開放され、時間をすべて自分のものにできるということは、特に何かやりたかったわけではありませんが、長い間のあこがれでした。引退前の数年間は「引退後は自由な時間が持てるのだからあと暫くは我慢しよう。」という意識でした。 引退については人によって様々な思いがあると思います。 「社会的な立場がなく... 続きをみる

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  • バンサーでの生活

    6年間のMM2Hビザ取得後の生活を振り返る前に、比較のためそれ以前のKL(バンサー)での生活を振り返っておきます。 バンサーではバンサー ショッピングセンター(BSC)のはす向かいのコンドに住みました。そのコンドは当時築後10年ほどたっていましたが、メンテナンスが比較的行き届いていて、建物内も外も... 続きをみる

  • 会社員時代とそれから

    再就職した会社の雰囲気に触れておきます。 私はメーカー勤務の経験が今までなく、また株式会社とはいっても全株式を一族で保有する個人企業に勤務した経験がなかったので、会社の雰囲気が今までの会社と全く異なることに戸惑いました。社長はオールマイティーでした。 意思決定権は現地にはなく、現地法人の社長は本社... 続きをみる

  • 会社員時代3

    2007年の3月末にマレーシアで第二の人生のスタートを切りました。 勤務先はKLから20kmほど南下したバンギというところでした。 住まいは不動産屋の案内でKL市内を見て回り、最終的にバンサーに決めました。2007年のころはモントキアラは建設ラッシュで将来はともかく、当時はとても住むのにいい環境だ... 続きをみる

  • 会社員時代2

    1972年4月に就職して退職したのは2007年の3月でそのときの年齢は58歳でした。35年間同じ会社に勤めたことになります。 現在の制度がどうなっているのかは分かりませんが、当時の会社の制度によると、45歳になるとその時点で、“選択退職”という制度の適用を選択でき、その時点で退職を選択すると、企業... 続きをみる

  • 会社員時代

    大学を卒業した昭和47年(1972年)は,私が入社した会社では、その前年の昭和46年に次ぐ300人を超える新卒者が一般社員として入社しました。 事務職といわれる女子社員はその半分ぐらいだったでしょうか、同期として入社しましたが、今から考えると男女の区別ははっきりとしており、待遇は全く違いました。今... 続きをみる

  • 大学時代2

    大学時代の就職活動について書いてみたいと思います。 早田刈りという言葉は今では殆ど聴きませんが、当時はよくこの言葉が使われていました。これは大学の3年生のときに就職先が決まってしまうという意味です。 企業側としては早めに優秀な人材を確保したいという動機があり、そのため他社に先駆けて募集活動を行いが... 続きをみる

  • 大学時代

    大学に入学したのは1968年です。入学時には全員が教養学部に入り、教養課程終了後に、専門学部にそれぞれ進学していくのですが、法学部と経済学部への進学予定者の場合は一くくりで、外国語の選択にあわせてクラス分けされます。大体1クラス50名です。法学部と経済学部への進学予定者は合計で1,000名で、全体... 続きをみる

  • 高校時代4

    今年の4月に卒業50年を記念した同窓会が行われました。 高校卒業後、同窓会に出たことはそれまでなかったのですが、たまたま、マレーシアを訪問していた同窓のK君から、「今度4月に行われる卒業50年の同窓会が最後の同窓会になるかもしれない。」という話を聞き、なぜか回顧に耽ることが多くなっていたこともあり... 続きをみる

  • 高校時代3

    高校に入学した昭和39年(1964年)に我々の間で話題を独占したのはビートルズでした。デビュー後何曲目かの曲として“抱きしめたい”という曲が発表され、これが日本でも大ヒットし、さかのぼって、それ以前に既にレコーディングされていた、“ラブ ミー ドゥー”、“プリーズ プリーズ ミー”、“フローム ミ... 続きをみる

  • 高校時代2

    進学校といわれた高校に入学したからと言って、勉強だけしていたわけではもちろんありません。 高校にはグランドが2つあって、一つが第一グランドといわれた校舎前のグランドで、そこでは朝の全校生徒による朝礼や、授業の間に行われる業間体操、バレーボールなどの球技の場となったりしていました。第二グランドはその... 続きをみる

  • 高校時代

    高校に入学した時期は都立高校全体の地盤沈下の元凶だったといわれる学校群という制度の実施前の最後の時期で、都立高校が全盛の時代でした。 学校群という制度は加熱する有名都立高校への受験戦争を緩和し、都立高校間の格差を是正して、受験戦争を緩和したいという、当時の小尾教育長が発案したもので、年々制度が厳し... 続きをみる

  • 子供のころの思い出5

    このたび“全世界情報”のカテゴリーにも分割を試みましたが、よく考えてみるとちょっと違うかなという気もしてきていて、カテゴリーについて今ちょっと迷っています。まー、しばらくはこのままにしておき、再考した結果“マレーシア情報”1本に再び絞ることになるかも知れません。一応ご報告まで。 小学校時代の自慢話... 続きをみる

  • 子供のころの思い出4

    小学校時代にすごした近所の思い出といえば、四ッ谷駅のすぐ近くにあるカソリック系の上智大学に併設されているセントイグナチヨ教会です。小学校低学年のころは食糧事情が悪く、お菓子を食べる機会等は遠足に持っていくおやつぐらいのもので、甘いものが不足していたからだと思いますが、イグナチヨ協会の日曜学校に行く... 続きをみる

  • 子供のころの思い出3

    経済成長が本格化する中、都心に住んでいた人たちは次第に郊外に移り住むようになりました。 私の小学校、中学校時代は、番町小学校、永田町小学校、麹町小学校→麹町中学校→日比谷高校→東大というルートに乗ろうという思惑や都心の小学校はレベルが高いだろうという思い込みから越境して通学してくる人が多かったこと... 続きをみる

  • 子供のころの思い出2

    キタオリ君のことであと覚えて得るのは、家に遊びに行ったとき発見したのですが、テレビがあった事です。昭和30年にテレビがあったというのは相当珍しく、今から思えば、きっと裕福な家だったのでしょう。 昭和30年のテレビ局としてはNHKと日本テレビそして東京放送(現TBS)がやっと開局したぐらいのときで、... 続きをみる

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  • 子供のころの思い出

    最近子供のころの記憶がどういうわけか、結構鮮明に蘇ってきます。認知症の人は古い記憶ほど残っているといいますから、もしかしてその傾向があるのかもしれません。 古い記憶というと、妹が生まれたときの記憶が鮮明に残っており、妹とは3歳違いなので自分が3歳のときの記憶ということになります。それ以前のものと思... 続きをみる

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  • 過去を振り返って

    このブログのカテゴリーは”マレーシア情報”に分類されていますが、実際にお得となるようなマレーシアの実利的な情報提供を目的としているものでなく、マレーシアに在住する引退者の雑感を綴っていくことを目的としていますことを予めご承知願います。 今回は自己紹介の補足として私の過去について振り返っておきます。... 続きをみる

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  • 自己紹介

    筆者は2017年8月現在、69歳です。2007年3月に30数年勤務していた総合商社を早期退職し、会社の紹介で別会社に就職、マレーシア駐在となりました。2年間そこで勤務し、その後MM2Hビザで8年間KLに住んでいました。 今般KLの喧騒から離れて地方に移住することを決意し、8月7日からKLから北に2... 続きをみる