会社員時代3

2007年の3月末にマレーシアで第二の人生のスタートを切りました。


勤務先はKLから20kmほど南下したバンギというところでした。


住まいは不動産屋の案内でKL市内を見て回り、最終的にバンサーに決めました。2007年のころはモントキアラは建設ラッシュで将来はともかく、当時はとても住むのにいい環境だとは思われなかったし、KLCC、ブキットビンタン付近はどうかというと、パビリオンは完成間じかでしたが、建設ラッシュが同様に続いていました。


バンサーは昔阪急のビルがあってハンキュー ジャヤと呼ばれていた、今のバンサーバルという地域(今はバンサービレッジという名前のビルが2棟建っています)と、バンサー ショッピング センター(BSC)を中心とする地域に分かれますが、連棟式の住宅が中心で、ところどころに高層のコンドミニアムが建っていて、おおきなデタッチ式の大邸宅もあるという、全体としては古く落ち着いた街並みでした。LRTのバンサー駅はまたちょっと離れたところに駅がありますが、バンサー駅周辺は当時は全く開発されていませんでした。


BSCは高級品を取り扱うというイメージが強く、中に入っていたスーパーもほかでは買えない様な品揃えをしていました。しかし中は閑散とした感じは否めず、2007年の後半にリノベーションし、テナントの入れ替えもあったのですが、今の状況はどうなっているのかは、最近は訪れておらずちょっと分かりません。


通勤は約30分ぐらいで、KLから郊外に出て行くという、ラッシュとは無縁の方向なので、比較的楽でした。運転手を付けてくれたのですが、道になれたころに自分で運転して通うようになりました。


再就職した会社はメーカーなので、従業員数は多く、工員にはマレーシア人は殆どおらず、バングラディッシュ、インドネシアなどからの外国人労働者が中心でした。仕事の中身はアルミのインゴットを買い付けて、溶解し、金型に入れて成型し、洗浄して部品を組みつける、という仕事で、力仕事の部分は全くありませんが、アルミインゴットの溶解工程はかなり暑いということはあります。


経営幹部として日本人スタッフが3名、日本人技術者が6名という陣容で、マレーシア人の中間管理職が監督業務を行っていました。


販売先は日本のパソコンメーカーでしたが、当時からパソコンの売り上げは低迷傾向にあり、値下げ圧力はかなり高いものがありました。仕向け地はタイ(パソコンの組み立てをタイで行っていたため)が中心で、日本へも一部輸出していました。当時はリンギが強含みで、USD建てなので輸出価格の競争力がそがれ、安い人件費とマレーシア政府の外資導入のための税制優遇だけがマレーシアで生産を続ける理由となっていました。


当時、地場にかぎらず欧米系も含め各銀行はリンギは更に強くなっていくという予測を発表していました。予測はあてにならないといういい例です。


次回はマレーシアでの会社員としての生活についてすこし触れてみたいと思います。

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