KLとイポー

KLとイポーを比較すると概略こんなところです。(ウィキぺディアなどから抜粋した情報も含みます。)

人口はKL市内だけだと180万人、KL都市圏(大KL)で考えると720万人であるのに対して、イポーは76万人弱で、大体10分の一の規模です。


イポーの人種別構成を見ると、中華系が70%、マレー系17%、インド系12.5%その他0.5%で、中華系がマレーシアの他の地域と比較して高い比率となっており、マレー系の比率が低いのが特徴です。インド系も街でよく見かけます。しかし、公務員は殆どマレー系であることはマレーシアの他の地域と同じです。


マレー系が少なくて、中華系、インド系がこの地域に多いのは、これらの民族は外国人労働者の末裔として、住み着いているからです。20世紀の中ごろまで、この地域にはスズの鉱山があり、スズの採掘のため、中華系などの外国人労働者が投入されてきました。しかし、スズの金属としての価値が下がり、スズ鉱山が次々と閉鎖され、イポーの町から人口がどんどん流失していきました。特に弱年層の流出は顕著でイポーは死んだ町とも言われたそうです。


引退者にとっては人も車も少なく、住みやすい町となっています。駐車するにも、KLでは駐車スペースを確保するのは至難の業ですが、イポーでは、少し歩くことを容認すれば、駐車スペースはまず確保できます。


1時間駐車できるクーポン(クーポンには1時間券、30分券、1日券の3種類ありますが、1日券しか置いていないところが多いように思われました。)を購入して、出る時間を削り取って出しておかないと、すぐ駐車違反の切符を切られます。従って、無駄に駐車しない人が多いので、車の回転は比較的速く、そのこともあって、駐車スペースに余裕ができるのではないでしょうか。


買い物については、欧米の一流ブランド店は見かけませんが、通常の買い物には不自由はないと思います。野菜、果物、魚介類、肉類はUTCの建物の中にもマーケットがあり、そこで買えますし、イーオン、イーオンビッグ、テスコなどのスーパーマーケットもあり、また100円ショップそのものはありませんが2リンギショップと称する激安の販売店もあり、DIYの店もあり、買い物には不便は感じません。PCやスマホなどのエレクトロニクス製品の販売店はイポー市内に固まって何ヶ所かあり、購入には不自由しませんが、修理などをこなす人は少ないように見受けられ、KLのローヤット プラザのように高度な修理は期待できないかも知れません。


レストランについては中華が中心になりますが、飲茶専門店、ホーカー、チキンライス専門店など多彩で、KLからわざわざレストランに来ることを目的としてくる人がいるほど充実しています。


最も肝心なゴルフ場についてはロイヤル ぺラッ ゴルフ クラブ(RPGC)、メルバレー、市内からちょっとはなれてクリヤ ウォーター サンクチュアリーの3コースあり、ゴルフ環境として全く問題ありません。RPGCとメルバレーはメンバーになってプレーしないとビジター料金が高額です。クリヤ ウォーターはコース自体は嘗てのスズ鉱山の跡地に水が溜まった地形を利用して作られたゴルフ場で、コース自体は悪くはなく、料金も安いのですが、メンテがいまひとつという評判です。


総じて言えば、イポーは静かに落ち着いて暮らせる町であるとは言えるでしょう。ここの生活を経験してしまうと、私はKLに戻りたいとは思いません。唯一の欠点は空港から遠いことですが、この一点を除いてはイポーでの生活に軍配を上げます。KLとイポーとのいい点悪い点を比較して、それぞれ何を目的にして住むのかを考えればいいと思いますが、この短い文がその一助になれば幸甚です。


次回はイポーについて、もう少し具体的に書いてみたいと思います。

KLでの自由な生活

会社から開放され、時間をすべて自分のものにできるということは、特に何かやりたかったわけではありませんが、長い間のあこがれでした。引退前の数年間は「引退後は自由な時間が持てるのだからあと暫くは我慢しよう。」という意識でした。


引退については人によって様々な思いがあると思います。


「社会的な立場がなくなってしまう。会社の名刺も持てなくなってしまう。」と悲観的に考える人もいることとは思います。私の場合は全くそうは考えませんでした。これからは自分の思うままに時間を使えるという喜びの感覚でした。何時まで寝ていてもいいし、何時まで起きていてもいい。明日のことは全く考えなくていい。こんなに楽でうれしいことはありません。


そうは言っても、安きに流れる生活を送っていては、生きていく意味まで失われていくようでもあり、自分で目標を設定しそれに向かって努力していくという意識は生きていくうえで必要だと思います。


設定すべき目標自体を自分で自由に決められる、また目標を達成すべき期限さえも自分で決められる、ということ、ここが大事なことです。


やはりルーティン(毎日考えることなしに、決まった行動をとること)のようなものを決めないと、「毎日が日曜日」でだらだらと過ごしてしまいがちになります。


私が「ルーティン」としたのは、ウィーク デイは毎日ゴルフ場に行くことでした。


会員となっているゴルフ場ではウィークデーの朝はプレー可能な時間から8時ぐらいまで、ウォーキング ゴルフができ、スタートを待つ列ができていました。適当に組を作って、3人または4人でスタートしていくのですが、毎回大体同じ顔ぶれになり、自然に顔見知りになります。なかでも特に親しくなったのは台湾出身の夫婦でした。ご主人は、そのときはもう引退されていましたが、以前は建設デザインを仕事にしていて、どこそこの地域は自分がデザインしたとか言って自慢げに話していました。彼らは“ロイヤル スランゴール クラブ”というソシアル クラブ(ロイヤル スランゴール ゴルフ クラブRSGCとは全く関係ありません)の会員でもあり、ゴルフ場の隣にもクラブの建物があって、ゴルフが終わった後で誘われてそこで朝食を採るのが常でした。チャイニーズ ニュー イヤーにはカードを贈ってくれたり、息子さんの結婚式に呼ばれたり、親しくお付き合いさせていただいていましたが、ウォーキング ゴルフがゴルフ場の方針で取りやめになり、以後数回、予約して(ウィーク デーでも予約をしないとプレーできないシステムになっており、いい時間帯の予約を取るのは一種の競争でした。)バギーで一緒に回ったりしていましたが、ご主人はガンの摘出手術を以前に受けており、そのせいかどうかはわかりませんが、私が日本滞在中に亡くなってしまい、葬儀にも出られませんでした。


その後、私はKL郊外のテンプラーにあったプランサン テンプラー ゴルフクラブにも入会し、そこでも毎朝、ウォーキング ゴルフをやっていました。こちらのほうはウォーキングをやっている人の人数はずっと少なく、到着したらすぐプレーできるという状態でした。難点はゴルフ場まで30分もかかり、(KLGCCの場合は行くまで10分という近さでした。)帰りがKLに向かっていくことになるため、渋滞に遭遇するということでした。客の数を確保できなかったためでしょうか、プランサンはSPセティアという開発業者に売却されることになり、やがて閉鎖されてしまいました。購入した会員権は使用した期間を割り引いて、支払った金額は返却されました。(日本でゴルフ場が民事再生法適用などで倒産すると、会員権の払い戻しがまず受けられないのとは対照的です。)KLでの自由になった6年間はゴルフが中心の生活でした。KLのコンドは6年間引っ越さずに、同じコンドに住み続けたのですが、家賃の改定がその間1回あり、当初から10%ぐらい上がっていました。昨年12月に同条件での延長を申し出たところ、今回オーナーから更に10%の値上げしたいとの通告があり、引っ越すことに決めました。引っ越すことを伝えると、「同じ家賃でもいいから継続してくれないか?」と言ってきましたが、既に次の住処を探していたこともあり、お断りしました。今年3月に次の住処を契約し、4月から移動することにしたのですが、4月には日本に一時帰国することになっており、マレーシアに帰ってこれる8月初旬まで、新しい住処は開けておかなければならない状態となりますが、荷物や車の保管の問題があり、4ヶ月ほどの家賃は無駄になりますが、やむをえないと判断しました。別の選択肢として荷物や車を一時保管できる業者に委託する方法も一応考えましたが、その場合、もう一回荷物の移動をしなければならず、委託料金もかかる事から、空き家にすることを選択しました。移動先として選んだのはイポーでした。イポーには下見目的以外にも観光として何回か来ていましたが、下見して、ゴルフ環境として問題ない先であると判断して転居先として決めました。実際にイポーにすみ始めたのは8月7日からですが、イポーはどんな街なのか、KLと比べてどうなのかについて、次回触れてみたいと思います。

バンサーでの生活

6年間のMM2Hビザ取得後の生活を振り返る前に、比較のためそれ以前のKL(バンサー)での生活を振り返っておきます。


バンサーではバンサー ショッピングセンター(BSC)のはす向かいのコンドに住みました。そのコンドは当時築後10年ほどたっていましたが、メンテナンスが比較的行き届いていて、建物内も外も美観は維持されていました。プールもきれいで、メインのプールのほかに、ジャグジー付きの温水プール、サウナもあり、欧米系の人を中心に、プールの周りの木陰に設置された長椅子で多くの人が休んでいるといったリゾート地のような雰囲気がありました。各種売店やマッサージの店がプールを取り囲んでおり、簡単な飲み物のオーダーを受け付ける店員がいて、オーダーすると飲み物を届けてくれていました。それでも中には客が少なくて(?)、閉店してしまっている飲食店などもあり、総じて店舗の経営は採算的には継続するか閉鎖するかのすれすれの状況に思われました。


BSCに行くには、車は使わず、コンドの裏口からジャラン マーロフを横断して歩いていくのですが、歩行者用信号が青になるまでに長い時間を要し、且つ歩行者用信号の青の間隔が異常に短く、歩く人への配慮が感じられない信号で、しかも時々故障しているという代物でした。


当時BSCには日本食レストランとして“竹の花”という和食店や大衆中華レストラン チェーンの“エスカイヤー キッチン”、タイスキの店、あと名前は失念しましたが高級中華レストランなどのレストランが入っていました。今はこれらの店のどれも撤退してありません。当時からまだ残っているのは入り口にある2件のコーヒー ショップぐらいではないでしょうか。マレーシアではどこでもそうかもしれませんが、店舗の回転が非常に早いです。“行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、且つ消え、且つ結びて久しく留まりたるためしなし。”が容易に実感されます。


そのころBSCの裏手に大規模なコンドの建設が始まろうとしており、完成すれば高級コンドになることが予想されていました。コンドの裏手から出て少し坂を上ると絶景が見られました。ツインタワー、KLタワーが一望でき、大きな邸宅が軒を連ね、高級住宅地の雰囲気がありました。経済的に許されるならば住んでみたい地区の一つではあります。


会社の休みは隔週土曜日と日曜日でしたが、殆どの買い物はBSCだったと思います。KL中心部に行くには道が混むし、当時はカーナビもなく道も分かりにくく、KL中心部に出かけることは殆どありませんでした。


ゴルフについては会社から割り振られたカジャンヒル(今は当時のディジャヤ、現トロピカーナに買収され閉鎖)のほかに住まいの近くのKLGCC(現TPC KL)の会員権を個人的に購入していましたが、コースに出るのは月に1度か2度ほどのペースで、KLGCCのドライビング レンジで休日は練習していました。土日は2人プレーが原則的にできないためということもあったと思います。


KLGCCについていえば設立は1997年で、シンガポールとマレーシアの企業の合弁でスタートしましたが、立地条件がいいというほかはどうということのないコースだったところ、サイムダービーに買収され、コースの大規模な改修があり、今では見違えるコースになっています。


勤務している時期は時間的な余裕がなく、会社に殆どの時間が取られていました。自由な時間を満喫するのは会社勤務から開放されてからということになります。次回は自由になった時間をKLでどのように過ごしたかについて書いていきます。

会社員時代とそれから

再就職した会社の雰囲気に触れておきます。


私はメーカー勤務の経験が今までなく、また株式会社とはいっても全株式を一族で保有する個人企業に勤務した経験がなかったので、会社の雰囲気が今までの会社と全く異なることに戸惑いました。社長はオールマイティーでした。


意思決定権は現地にはなく、現地法人の社長は本社でいえば部長か課長クラスで、経営方針に関する指示はすべてトップダウンで東京の社長から来ました。現法の社長の役割は工場を円滑に運用する工場長またはそれ以下の立場でした。


それと技術職と事務系職員の目に見えない根深い対立もありました。私が担当した財務の仕事でも、今までのやりかたを変えようとすると、強い抵抗にも直面しました。


なれない社風に直面して、このままここでやっていけるのか不安を感じていたというのが率直なところです。勤務を続けても、続けなくても経済的にはあまり変わらないという背景もあり、なるべく早めに退任しようと思い始めていました。


第二の会社を辞める日はやがてやってきました。雇用ビザの有効期間があと1年ありましたが、退任することにしたのです。それが59歳のときで、企業年金と厚生年金の所得割りの支給が開始される60歳まで暫くありましたが、それはそれでしのぎました。会社を辞めることになったときは、入国管理法上、雇用ビザを直ちにキャンセルして出国しなければならないというのがルールですが、雇用ビザを当面残したまま、MM2Hビザ取得の準備を始めました。厳密にはルール違反です。しかし会社を辞めているという実態は外部からは認識することは難しいので、ルール違反を立証することは難しいでしょう。


MM2Hビザ取得の経緯についてここで触れて起きます。ちょうどそのころ、MM2Hビザをエージェントなしで直接取れるように制度の改定があり、それで自分で書類の作成を始めました。さらに会社の用意してくれていた住居にいつまでもいるわけにはいかないので、KL市内で住むところを探し始めました。今後住むところも決まり、MM2Hビザ申請の準備も整い、そこで2009年の3月末付けで雇用ビザをキャンセルし、同日の帰国便の予約を行いました。雇用ビザのキャンセル申請時に帰国便の搭乗券のコピーが必要だったかと思います。雇用ビザのキャンセルといっても自分の意思だけでできるものではありません。雇用ビザを申請したのは会社ですから、会社から雇用を打ち切る旨の書類を出してもらうことが必要です。会社が雇用をキャンセルしたという書類が出た段階で対外的には初めて雇用が打ち切られたということになります。


MM2H申請時点では、既に今後住む所も決まっており、銀行口座は勤務時の口座をそのまま使用できる状態だったので、その点は助かりました。


雇用ビザのキャンセルにより、マレーシアから一度出なければならなくなり、日本に帰国してMM2Hビザの申請結果を待ちました。2009年の5月4日付けでMM2Hビザの許可がおり、5月12日に再びマレーシアの地を踏みました。(この辺の日付けはパスポート、観光省からのレターをみれば分かります。)暫く期間をおいて7月11日に当時PWTCにあった観光省でMM2Hビザを取得しました。これでパスポートの有効期間の3ヶ月前まで、マレーシアに滞在することができるようになりました。再びマレーシアの地を踏んでから、ビザ取得までの2ヶ月の間、既に入会していたKLGCC(現TPCKL)でのプレーのほかにMM2Hビザ取得者を中心としたゴルフの会などにも入れていただいたり、ゴルフ三昧でした。


次回はMM2Hビザ取得後のKLでの6年間を振り返ってみたいと思います。

会社員時代3

2007年の3月末にマレーシアで第二の人生のスタートを切りました。


勤務先はKLから20kmほど南下したバンギというところでした。


住まいは不動産屋の案内でKL市内を見て回り、最終的にバンサーに決めました。2007年のころはモントキアラは建設ラッシュで将来はともかく、当時はとても住むのにいい環境だとは思われなかったし、KLCC、ブキットビンタン付近はどうかというと、パビリオンは完成間じかでしたが、建設ラッシュが同様に続いていました。


バンサーは昔阪急のビルがあってハンキュー ジャヤと呼ばれていた、今のバンサーバルという地域(今はバンサービレッジという名前のビルが2棟建っています)と、バンサー ショッピング センター(BSC)を中心とする地域に分かれますが、連棟式の住宅が中心で、ところどころに高層のコンドミニアムが建っていて、おおきなデタッチ式の大邸宅もあるという、全体としては古く落ち着いた街並みでした。LRTのバンサー駅はまたちょっと離れたところに駅がありますが、バンサー駅周辺は当時は全く開発されていませんでした。


BSCは高級品を取り扱うというイメージが強く、中に入っていたスーパーもほかでは買えない様な品揃えをしていました。しかし中は閑散とした感じは否めず、2007年の後半にリノベーションし、テナントの入れ替えもあったのですが、今の状況はどうなっているのかは、最近は訪れておらずちょっと分かりません。


通勤は約30分ぐらいで、KLから郊外に出て行くという、ラッシュとは無縁の方向なので、比較的楽でした。運転手を付けてくれたのですが、道になれたころに自分で運転して通うようになりました。


再就職した会社はメーカーなので、従業員数は多く、工員にはマレーシア人は殆どおらず、バングラディッシュ、インドネシアなどからの外国人労働者が中心でした。仕事の中身はアルミのインゴットを買い付けて、溶解し、金型に入れて成型し、洗浄して部品を組みつける、という仕事で、力仕事の部分は全くありませんが、アルミインゴットの溶解工程はかなり暑いということはあります。


経営幹部として日本人スタッフが3名、日本人技術者が6名という陣容で、マレーシア人の中間管理職が監督業務を行っていました。


販売先は日本のパソコンメーカーでしたが、当時からパソコンの売り上げは低迷傾向にあり、値下げ圧力はかなり高いものがありました。仕向け地はタイ(パソコンの組み立てをタイで行っていたため)が中心で、日本へも一部輸出していました。当時はリンギが強含みで、USD建てなので輸出価格の競争力がそがれ、安い人件費とマレーシア政府の外資導入のための税制優遇だけがマレーシアで生産を続ける理由となっていました。


当時、地場にかぎらず欧米系も含め各銀行はリンギは更に強くなっていくという予測を発表していました。予測はあてにならないといういい例です。


次回はマレーシアでの会社員としての生活についてすこし触れてみたいと思います。