高校時代3

高校に入学した昭和39年(1964年)に我々の間で話題を独占したのはビートルズでした。デビュー後何曲目かの曲として“抱きしめたい”という曲が発表され、これが日本でも大ヒットし、さかのぼって、それ以前に既にレコーディングされていた、“ラブ ミー ドゥー”、“プリーズ プリーズ ミー”、“フローム ミー トゥー ユー”、“シー ラブズ ユー”などの曲にも注目が集まりました。これらの曲をいれた“ミート ザ ビートルズ”というアルバムがオデオン レコードから発売され、多くの人がこのアルバムを買ったのではないでしょうか。


高校3年のときに武道館でビートルズが来日公演を行い、テレビ中継もされ、彼らが泊まったヒルトンホテルには人が殺到しました。彼らが日本公演で歌った“ペーパー バック ライター”は今でも耳に残っています。しかし“ガールズ”あたりの曲を最後にして、歌の傾向が変わっていったためか、自分のなかでは次第に熱は冷めていきました。“ガールズ”以降の曲を“後期ビートルズ”と呼んで、私は勝手に区別していますが、それまでの“前期ビートルズ”は今でも好きです。


高校に入学した年はオリンピックの年でした。オリンピックに向けて東京中で工事が行われ、住環境の整備も進んでいました。オリンピックの入場券が我が校にも割り当てられ、順番に見に行きました。オリンピック景気のためか繁華街は人であふれかえり、道を歩くのも人で詰まってしまって、スムースに歩けないほどでした。ある教師は「オリンピックが終わると大インフレになる。」と予言めいたことを言っていました。今から考えると、オリンピックで総需要が増えるので物価が上がる、というロジックだったのだと思います。そう予想した先生は生物の先生でしたが、独特の語り口で生徒の間では人気がありました。


オリンピックの翌年、40年不況といわれるオリンピック景気の反動による不景気が日本を襲いました。山崎豊子の「華麗なる一族」で取り上げられた山陽特殊鋼の倒産がちょうどこのころです。この時代はほかにもいろいろなことがあったとは思いますが、印象に残っているのはビートルズとオリンピックにまつわることでしょうか。


次回は今年の4月に行われた“卒業50年記念同窓会”について書こうと思います。

高校時代2

進学校といわれた高校に入学したからと言って、勉強だけしていたわけではもちろんありません。


高校にはグランドが2つあって、一つが第一グランドといわれた校舎前のグランドで、そこでは朝の全校生徒による朝礼や、授業の間に行われる業間体操、バレーボールなどの球技の場となったりしていました。第二グランドはその横にあってかなり広いグランドで、1,500m走やサッカーなどが行われたりしていました。それに加えて通称第三グランドという、大きな声では言えない広い敷地がありました。それは隣接する新宿御苑です。学校と御苑の間にはコンクリート製の塀があるのですが、みんなで塀の下に人がやっと通れるぐらいの穴を開け、事実上、出入り自由になっていました。時々学校に苦情が来て穴は修復されるのですが、いつかまた穴が開けられるという状況でした。朝礼で「穴を開けてはいけません。」という通達がされるのですが、実際のところそのような注意は有名無実で、誰も真剣に穴あけをやめようという気はないようでした。この高校の生徒である特権であるかのように考えていたような気がします。もともとは新宿御苑の御料地に建てられたという経緯もあったようです。


私も何度も穴をくぐって新宿御苑に出入りしたものでした。しかし我々が卒業して数年経ってから、新校舎が建てられ、そのような“特権”は消滅してしまったようでした。その当時の校舎は学校開校翌年の1922年(大正12年)(開校後1年間は現在の竹早高校、当時は府立第二高等女学校)に間借りしていたとのことです。)建てられた校舎で、講堂には天皇皇后両陛下の御尊影を飾っておくスペースがあったり、日露戦争における日本海海戦の旗艦三笠の鐘を飾っていた鐘塔があったり、昔の影をその当時まで残しており、大変風格がある校舎でした。三笠の鐘は米国に接収されるのを恐れた誰かが、隠したということになっていますが、今もって行方知れずとなっています。


我々が卒業した1967年(昭和42年)には校舎は既に建築後45年経過しており、50年を機に建て直そうということになったのだと思いますが、その新校舎も現在は建て替えられ、今は3代目の校舎となっており、昔の面影は全く残っていません。現在の校舎を訪れても全く感慨はありません。東京人の悲劇でしょうか、昔を偲ぶものが何もないのです。


次回は高校時代の時代背景について少し書いてみたいと思います。

高校時代

高校に入学した時期は都立高校全体の地盤沈下の元凶だったといわれる学校群という制度の実施前の最後の時期で、都立高校が全盛の時代でした。


学校群という制度は加熱する有名都立高校への受験戦争を緩和し、都立高校間の格差を是正して、受験戦争を緩和したいという、当時の小尾教育長が発案したもので、年々制度が厳しくなり、その結果、都立高校間の学校格差の均等化が達成されるのと引き換えに、都立高校全体が地盤沈下していきました。そして、都立高校への入学インセンティブが失わていき、受験生は私立高校へと流れていきました。


これは平均化という政策がよくないことを示すいい例ではないでしょうか。平均化してみんなが同じという世界は想像上では理想郷のように聞こえますが、それはあまりにもきれいごとすぎ、競争を失った世界では衰退があるのみです。機会を平等にして、十分競争し、勝者は勝者として認め、敗者にはそれなりに手当てを行うという社会が、社会を活性化していくものだと私は信じています。


それまでの都内の高校のランクでは都立の日比谷、西、戸山、新宿が中でも群を抜き、小石川、両国、上野などが後に続いていました。私立高校では麻布、開成といったところですが、これら私立高校の生徒たちは、開成は一部高校からも入学生を採っていましたが、中学からの入学者が基本で、小学校で猛勉強し、受験戦争に早くから勝ち抜いた人たちでした。そのほか国立系では、教育大付属、教育大付属駒場、学芸大付属といったところが都内の中学生である受験生が当時目指した高校でした。早稲田高等学院や慶応日吉、慶応志木などの大学付属高校も大学の受験戦争を避けられるということから、中学生の間では人気があり、行きたい高校の対象となっていました。


私は幸いにもこれらの都立高校の中の一つに、引っかかって入学できましたが、合格できたことを本当に喜んだものでした。入学して回りをみると、優秀そうな人たちばかりで、気後れしました。


初めての国語の授業で、かなりお年を召した(と思われる)小島先生という女性の先生が「中学のころは玉石混交だったけれども、入学された皆さんは玉ばかりです。」と生徒を褒め称え、そうかと妙に納得したものです。


そこでは生徒と教員全体が一流大学を目指して、突き進むという雰囲気でした。そこでの一流大学とは東大、東工大、一ツ橋、ちょっと下がって京大、阪大などの旧帝大のことで、その他の国公大、私立大は早稲田、慶応でさえ受験戦争に敗れたものが行くところだという、今から思えば傲慢な思想が蔓延していました。(と思います。個人的な感想です。)


次回は実際の高校生活を振り返ってみたいと思います。

子供のころの思い出5

このたび“全世界情報”のカテゴリーにも分割を試みましたが、よく考えてみるとちょっと違うかなという気もしてきていて、カテゴリーについて今ちょっと迷っています。まー、しばらくはこのままにしておき、再考した結果“マレーシア情報”1本に再び絞ることになるかも知れません。一応ご報告まで。


小学校時代の自慢話?として、一つご披露しておきたい話があります。


今まで誰にも言ったことはないのですが、小学校の4年生か5年生のときの話です。同じクラスの女子に告られたことがありました。次のような会話がありました。(○君とは私のことです。)

xx女子「○君のこと好きな子の名前知りたい?」
私「ウン、知りたい。」
xx女子「xさん、yさん、zさん、それとAさん、Bさん、Cさん。もっといるかもしれない。」
私「ええ! そうなの?」
xx女子「この中で意外に思った人いる?」

実はこの中に私がひそかに好きだった人がいたのですが、その人を“意外”だといってしまうと、心の中が見透かされると思ったので、あえて本命以外の人の名前を私は「zさんはありえないと思った。」と答えておきました。

xx女子「どうして意外だと思ったの?」
私「だっていつもくすぐったりいじわるをしてくるから。」
xx女子「ふーン、そうなんだ。実は私も○君のこと好きなんだ。」

翌日、クラスの中で、「○君はzさんが好き。」という噂が広まったことはいうまでもありません。


さて、中学校時代はほとんどの人が進学に向けて猛勉強している中、自分としては、しっくりとするものがなく、勉強らしい勉強はしませんでした。


学校周辺に住んでいる人はどんどん郊外に移動していきました。小学生のころはまだマーケットや個人商店などが千代田区のいわゆる山の手と呼ばれた地区にもあったのですが、それらは次々に取り壊されていき、ビルが建ち、そこにいろいろな会社が入ってきました。住む空間は完全に破壊されました。


小学校の同窓会は卒業後4年ほどは開催できていましたが、その後は連絡が付かなくなり今は全く音信不通となっています。


中学でも事情は同じで、しかも小学校の通常の進学ルート以外からもどんどん生徒が入り込んできて、その結果、越境入学者が大半となり、生徒数は我々の年で1学年に500数十名、1学年のクラスの数が、1年上の年次ではA組からK組まで11組、我々の年次でA組からJ組まで10クラス編成で、1クラスが55人ほどいました。


どこのどんな人たちか、どこに住んでいるのかもわからない人たちが周りに一杯いて、高校受験に向かって競い合っているという感じでした。中学校は1年終了時にクラス替えがあり、2,3年は同じクラスでしたが、このような状況では一体感も生まれるはずもなく、卒業後同窓会というものをやったかどうかも記憶にありません。


私は、受験勉強にも力が入らず、周りに適当に合わせて順応しているように振舞っていただけでした。東京砂漠という言葉がぴったりの世界だった中学校時代でした。

本来の生徒となるべき人数が激減してきたため、我が中学は廃校になるという噂が一時流れましたが、出身者に有力者を輩出してきたためか、廃校にならずに現在も隆々と運営されているようです。インターネットで見ると現在、中学校の同窓会という組織はあるようですが、同窓会には誰でも入れるというのではなく、「会員の推薦が必要」というようになっていました。これってナンなの?という感じです。

次回は高校時代について書いてみたいと思います。

子供のころの思い出4

小学校時代にすごした近所の思い出といえば、四ッ谷駅のすぐ近くにあるカソリック系の上智大学に併設されているセントイグナチヨ教会です。小学校低学年のころは食糧事情が悪く、お菓子を食べる機会等は遠足に持っていくおやつぐらいのもので、甘いものが不足していたからだと思いますが、イグナチヨ協会の日曜学校に行くと、お菓子をもらえるという噂を聞きつけ、信者になるわけでもないのに日曜になると日曜学校に駆けつけたものでした。今から思えば厚顔無恥もいいところで、牧師の方に申し訳ないことをしたと思います。


上智大学といえば、今は地下鉄丸の内線の通り道になっているあたりに上智大学の広い空き地があって、あるときゴルフ練習場として整備され、多くの男女が一心不乱に練習している姿が中央線の車窓からも見ることができました。将来は自分もゴルフをやってみたいとそのとき思ったかどうかは記憶にありませんが、それがゴルフとの最初の遭遇でした。
中学のころには転居して住所が新宿区に変わっていましたが、住所が変わっても中学校は転向せずに都電の角筈から月島へ行く11番という路線で通学しました。四谷が通り道になるのですが、中学から四谷まで寄り道しながら歩いていき、四谷で上智大学の食堂でカレーやハンバーグをよく食べたものでした。今でも大学の構内に勝手に入って、そんなことができるのかどうかわかりませんが、セキュリティーが厳しくなった現在でも、大学の構内は自由に誰でも入れる環境にあるのではないでしょうか。

過去を振り返りながらも、単語の一つ、一つにそれぞれ、思い入れがあり、どんどん枝葉に分かれてしまうので、読んでいる方にとってはいまいち何がいいたいのか分からないとお思いでしょうが、端的に言えば、いわゆる昔話でそれ以上のものではありません。

次回もこの路線で継続させていただきます。