子供のころの思い出3

経済成長が本格化する中、都心に住んでいた人たちは次第に郊外に移り住むようになりました。
私の小学校、中学校時代は、番町小学校、永田町小学校、麹町小学校→麹町中学校→日比谷高校→東大というルートに乗ろうという思惑や都心の小学校はレベルが高いだろうという思い込みから越境して通学してくる人が多かったこともありましたが、越境通学してくる人たちの住所は多岐に渡っていました。半分以上が越境通学者ではなかったかと思います。


勉強に熱心ではなかった私の中学時代にはそのルートに乗る意欲はほとんどありませんでしたが、進路指導により日比谷高校と学区が違う他の都立高校を受験することになり,
そこに入学することになりました。日比谷高校を受験するためには内申書の基準があり、成績の枠もあって、いい点数ばかりを付けるわけには行かなかったという事情もあったようです。私の学業成績はその程度だったということです。


まあ、学校の進路話はこの辺にしておき、小中学校時代どんな風にすごしていたかについて若干述べておきたいと思います。

小学校低学年時代は車も少なく、わき道で小さいゴムボールを使って野球の真似事をしたり、時折やってくる紙芝居を楽しんだり、駄菓子屋でお菓子を買ったり、といったすごし方をしていました。知恵の輪や軍事将棋(今はもうそのような将棋はないのかもしれません)、三輪車、その後自転車が乗れるようになると自転車、竹馬、おはじき、ベーゴマなども遊び道具でした。縄跳び、缶けり、かくれんぼ、鬼ごっこ、駆逐水雷(言葉だけ覚えていますがどういう遊びだったか、殆ど覚えていません)、花一文目などの遊びもありました。

小学校の高学年になると、外堀(四谷見付から市谷にかけてのお堀)に四つ出や、つり竿を持って魚を採りに行きました。取れるのはクチボソという小魚やエビッチョという小さなエビで、それを水槽に入れて飼うのですが、殆どがすぐに死んでしまいました。市谷から飯田橋に掛けてまたさらに水道橋、御茶ノ水にかけても水路(神田川)はあるのですが、魚が採れるのは四谷、市谷間だけで、それ以外は当時は水質がよくなく、ゴミが浮いて、どぶのようなにおいもあり、魚は無理でした。あのあたりも今では驚くほど水がきれいになっていますが。


あと、当時の司法研修所の下に清水谷公園(別名、大久保公園)という小さな公園があるのですが、そこに小さな小川が流れていて、タニシやアメリカザリガニを取ったものでした。公園の中に大きな石碑が立ってはいましたが、そこが大久保利通の最期の地だとは知りもしませんでした。大久保利通と聞いても「誰?」という感じでした。

次から次に昔のことが思い出され、話は尽きないのですが、次回ももう少し同じ流れで話を続けさせてください。

子供のころの思い出2

キタオリ君のことであと覚えて得るのは、家に遊びに行ったとき発見したのですが、テレビがあった事です。昭和30年にテレビがあったというのは相当珍しく、今から思えば、きっと裕福な家だったのでしょう。


昭和30年のテレビ局としてはNHKと日本テレビそして東京放送(現TBS)がやっと開局したぐらいのときで、それも一日中やっていたわけではなく、ほとんどの時間はテストパターンという丸い円の画像の試験放送がされている状態でした。しばらくするとテレビも徐々に普及し、学校での話題もテレビ番組が中心になっていきました。

テレビについての思いでは、小学校低学年のころでは、家のすぐ近くにあった日本テレビの街頭テレビでみた力道山、当時は自由に入れた日本テレビのスタジオの中で見た大相撲、テレビを購入後では東京放送(6チャンネル)でやっていた月光仮面が待ち遠しかったこと、小学校高学年に入ると、ミツワ石鹸提供の名犬ラッシー、名犬リンチンチン、ローンレンジャー、ララミー牧場、ビーバーちゃん、ローハイド、パパは何でも知っている、などのアメリカのテレビ番組の日本語吹き替え番に夢中でした。


ラジオ番組からテレビにも移行した少年探偵団や赤胴鈴乃助はテレビになって期待はずれだった印象があります。


中学校に入ってからも同じような傾向で、テレビについてはよく覚えているのですが、私立の難関中学に入ろうとしている人たちはよく勉強していたようですが、そのような予定のない自分は勉強をした記憶はほとんどありません。


中学に入ってからの話ですが、ララミー牧場はまだ続いていて、その主演の一人だったジェフ役のロバートフラーが来日したことがありました。彼が泊まったのが赤坂プリンスホテルでそのすぐ前に我々の中学があり、ちょうどクラス替えの時期で、クラスごとに記念撮影をやっていたところにロバート フラーが現れ、一クラスだけですが記念撮影に参加してくれたということがありました。私はそのクラスではなかったため、とてもうらやましかったことを覚えています。


こまごまとしたことを思い出すまま書いていますが、次回も引き続きもう少し過去の思い出を書いてみたいと思います。

子供のころの思い出


最近子供のころの記憶がどういうわけか、結構鮮明に蘇ってきます。認知症の人は古い記憶ほど残っているといいますから、もしかしてその傾向があるのかもしれません。

古い記憶というと、妹が生まれたときの記憶が鮮明に残っており、妹とは3歳違いなので自分が3歳のときの記憶ということになります。それ以前のものと思われる記憶も残っていますが、取り立てて特別なイベントがあったわけではないので、それは混沌としたものです。

小学生の時代では1年生のときの記憶も残っています。キタオリ ノブタカ君という存在がそれです。小学校は6年間転校はしなかったのに、なぜ1年生のときの記憶なのかというと、彼は1年生のとき転校してしまったからです。だから残っている記憶は小学1年生のときのものです。何故鮮明に残っているかというと、ある出来事があったからです。先生に質問されて、それがどんな質問だったかは忘れてしまっていますが、自分が答えられずにいたとき、キタオリ君が答えたというだけの、たわいのない出来事ですが、子供ながらも自分がなぜかなんでも一番だという自負があったのでしょう、自分を超える人がいることが幼いながらもショックだったからです。このことからもいかに自分が自意識過剰でいやなやつかが分かると思います。

キタオリ君が地方に引っ越して行ってからの消息は全く分かりません。

次回ももう少し昔のことを振り返ってみたいと思います。

過去を振り返って

このブログのカテゴリーは”マレーシア情報”に分類されていますが、実際にお得となるようなマレーシアの実利的な情報提供を目的としているものでなく、マレーシアに在住する引退者の雑感を綴っていくことを目的としていますことを予めご承知願います。


今回は自己紹介の補足として私の過去について振り返っておきます。


私の生まれは東京都内で、小学校から大学まですべて東京都内です。大学の最初の2年間は教養課程受講のため山手線の少しだけ外に出ましたが、それ以外はすべて山手線の内側でした。小学校、中学校までは外堀の内側(千代田区)でした。


今から振り返ると、小学校時代である、昭和30年代は日本が復興に向かって着実に変化していく時で、半蔵門から四谷に向かう甲州街道沿いは大きな建物は全くない状態で、最初にできたビルは麹町5丁目あたりにできた共済ビルでしたが、そのころから甲州街道沿いはこれからビルが次々に立っていくといわれていました。


当時はテレビ局がそれぞれ独自にテレビ塔を持っていた時代で、民放テレビとして最初にできた日本テレビは三番町のテレビ局前に鉄塔がありましたし、NHKは当時の赤坂プリンスのすぐわきに鉄塔があり、東京放送(現TBS)は赤坂に鉄塔がありました。フジテレビが開局したのが昭和33年か34年あたりだと思いますが、それから各局の送信が東京タワー1本になりました。それまではテレビの映りが悪く、人物がぼやけて移り、二重三重になって幽霊のように映っていたのが、東京タワーができてから、鉄塔の高さが高くなり、よく映るようになったといわれたものです。


年を重ねると今までの来し方を振り返って見たくなるもので、このような雑念に付き合わせてしまい申し訳ありませんが、次回ももう少し過去を振り返ってみたいと思います。

自己紹介

筆者は2017年8月現在、69歳です。2007年3月に30数年勤務していた総合商社を早期退職し、会社の紹介で別会社に就職、マレーシア駐在となりました。2年間そこで勤務し、その後MM2Hビザで8年間KLに住んでいました。
今般KLの喧騒から離れて地方に移住することを決意し、8月7日からKLから北に200kmのイポーに移住しました。


69歳という年齢から、あと何年QOLを維持して生きられるのか、あと2年残っているMM2Hビザを更新すべきかどうかが当面の問題です。


この”マレーシア情報”というブログには既に多くの方が有益な情報や貴重な体験談の提供をされており、私が付け加えるようなこともないかもしれませんが、マレーシアに住む一人の日本人の引退者が日々考えたことを綴って生きたいと考えています。生き方の参考に少しでもなれば幸いです。


これだけでは本人の情報としては十分ではないと思われるので、後日、自己紹介についてもう少し補足しておきたいと思います。