会社員時代2

1972年4月に就職して退職したのは2007年の3月でそのときの年齢は58歳でした。35年間同じ会社に勤めたことになります。


現在の制度がどうなっているのかは分かりませんが、当時の会社の制度によると、45歳になるとその時点で、“選択退職”という制度の適用を選択でき、その時点で退職を選択すると、企業年金を受け取る権利は喪失する代わりに、まとまって相当額の退職金が受け取れました。自分で事業を起こしたいという人にはチャンスでもありました。


それを選択せず会社に残った場合には、48歳から“定年扱い退職”という制度が準備されていました。この制度の適用対象年齢は48歳から当時の定年であった63歳までで、この間に退職を選択すると、定年まで勤務したと看做した退職金がその時点で受け取れ、60歳から企業年金も受け取れ、さらにここではちょっと公開できない特典がついた制度でした。経済的には継続して働いても、そうでなくてもあまり変わらないというありがたい制度でした。


実は若いころに、会社の先輩であるK氏が、マレーシアのキャメロン ハイランドを訪れ、その気候が気に入って、キャメロンに定住したという本を出されており、その内容に惹かれていた私は、経済的に成り立つならば、会社をやめて、マレーシアに移住し、ゴルフ三昧の生活に入りたい、と予てから考えていて、58歳になったころ、マレーシアに住みたいので“定年扱い退職する”旨を会社に表明したところ、再就職先として、取引先のあるメーカーへの再就職を打診されました。


そのメーカーはマレーシア駐在の財務責任者を探しているという話でした。渡りに船とはまさにこのことで、「マレーシア駐在としてしばらく勤務し、しかる後に悠々自適の生活を送ることができればベストではないか。」と考えてマレーシアにやってきた次第なのです。マレーシアで第二の人生がスタートしました。それはちょうど10年前のことです。


退職した時点ではマレーシアの隣のインドネシアに赴任中で、退職後の翌年の住民税は前年の所得がベースになるので、高額になるという話をよく聞いていましたが、私の場合は翌年も非居住者なので、住民税は全くかかりませんでした。もともと、退職時点でもインドネシア駐在なので住民票は日本になく、国内所得はゼロでした。これは税制の盲点です。


高額の所得があった翌年は住民票をその年に抜いて(翌年の1月1日時点での住民票の有無が住民税課税の基準になっていますので)海外に出てしまえば、高額な住民税から逃れるということになるのではないかと思います。海外駐在者の帰任後の住民税は、前年の国内所得がゼロなので住民税は掛からないため、課税後の所得で有利になるという話と同じです。


次回マレーシア駐在として働いていたころについて、少し触れておきたいと思います。

会社員時代

大学を卒業した昭和47年(1972年)は,私が入社した会社では、その前年の昭和46年に次ぐ300人を超える新卒者が一般社員として入社しました。


事務職といわれる女子社員はその半分ぐらいだったでしょうか、同期として入社しましたが、今から考えると男女の区別ははっきりとしており、待遇は全く違いました。今は一般社員にも女性がどんどん採用されていますし、事務職という職種は現在では派遣社員に取って代わられ、事務職という呼称自体もなくなっているかもしれません。人事に関するさらなるデータ開示は社内秘密になると考えられるのでこれ以上の公開は控えます。


そのころの商社に対する世間の見方は、商社は会社間の取引に介入して口銭を取るだけで何の機能も果たしていないという商社不要論と、ラーメンからミサイルまであらゆる事業分野に関与して産業をリードしていく開発者(デベロッパー)としての評価との両論がありました。どちらもある一面をだけを突いていて、群盲象をなでるようで、どちらも一面的過ぎるような気がします。


機能がなければやがて排除されていきますし、開発者として働いていくにしても、成功するまでには地道な努力と、長い時間がかかり、一方で日々の利益は確保しなければならないという営利会社としての宿命をも背負っているというなかで、日々働いていたように思います。


わが社は自由闊達が建前なしの社是であり、会社が定めた権限規定の中で、稟議書を自ら発議し、許可が出れば自由に行動ができたといういい会社だったと思います。社員一人ひとりが中小企業の経営者のように行動していました。


浮利を追わないことも会社の社是であり、投機などはもってのほかで、必ず保険をかけ、一か八かの行為は厳に戒められていました。


そんな慎重な経営方針をとってはいても、中東の政治情勢の変化で会社が大きな損失を蒙ったことがあり、それは会社の危機でもありましたが、何とか事業を継続でき、ここまで来ました。


やがて訪れたバブル崩壊時には、“浮利を追わない”、という会社の大方針があったためか、株、土地などの投機に走らなかったおかげで(一説には中東の損失で投機に走る原資がなかったという説もありましたが)、国内の取引先には大きな影響があった会社もあったものの、会社自体の業績には軽微な影響しかでませんでした。それでもバブル崩壊で国内事業環境が大きく変わったことで、それ以降の業績には影響がでました。


ごく最近の話をすると、石油、鉄鉱石などの資源価格の大幅な下落で、商社が赤字になったり、収益の大幅な減収が伝えられていますが、資源確保の宿命を負っているわが国の弱みが露呈した結果だと思います。資源確保のためには長期にわたる購入契約が必要で、その権利を買わなければなりませんが、購入した長期契約の対価が資源価格が下落すると、契約の価値が下がってしまうことになります。決算時には価値が下がった長期契約という資産を減損処理しなければならず、その減損額が大きく足を引っ張ることになったようです。現在、国内の殆どの会社が採用している国際会計基準では、すべての資産は時価評価しなければならず、それまでのわが国の会計慣行で認められてきた、含み損とか、含み益の概念はもはや通用しなくなっています。ですから、公表されているCPAの適正意見付きのバランスシートは信用性が高いということは言えるでしょう。


次回は会社を早期退職をしたあたりにすこし触れてみたいと思います。

大学時代2

大学時代の就職活動について書いてみたいと思います。


早田刈りという言葉は今では殆ど聴きませんが、当時はよくこの言葉が使われていました。これは大学の3年生のときに就職先が決まってしまうという意味です。


企業側としては早めに優秀な人材を確保したいという動機があり、そのため他社に先駆けて募集活動を行いがちになります。学生側は企業の募集活動が非公式ではあっても行われていることから、会社訪問と称して企業を就職活動のため訪れるという慣行がありました。


企業側には訪問してくる学生に対応するため、人事部以外からも臨時に社内から人材を選抜し、早田刈りを推進していました。そのころから既にあったリクルート社が企業の情報記事を集めた分厚い本を学生の住所に送ってきて、学生に企業訪問を促し、早田刈りの触媒となっていました。就職活動は完全な売り手市場で、会社訪問して大学名を言うと、豪華な昼食の接待を受けたり、自社製品のお土産を渡すところもありました。「就職試験を是非受けてください。」などといわれますが、そうは言っても最終的に試験で落とされる場合もあり、当然ですがこの大学の生徒ならばどんな人材でも受け入れるということは決してありませんでした。


大学3年生の秋ごろから内定者が出始め、事実上4年になる前に就職先が決まってしまうという状況で、我々の仲間の中には10数社の一流といわれる企業から内定をもらったという人もいました。彼は最終的には4年生の6月に実施される公務員試験を受けて、公務員になりました。当時人気の就職先は銀行、商社で、メーカーは全く人気がありませんでした。


私は教養学部時代のクラスの中のグループの一つの中にいましたが、仲間の就職先の内訳は大体次のような感じでした。司法研修所(つまり司法試験合格者)2名、公務員2名、銀行2名、商社1名、メーカー3名、大学院1名。


大学院に進んだ彼は、我々の中の論客で、思想的にも我々をリードしてきた人物でしたが、司法試験に合格せず、やむなく大学院に進んで再起を期すという感じでした。


この仲間たちは今でも付き合いが続いており、年に一度は集まっていますが、私はここ13年ほど継続して海外にいることもあり、ここ13年でこの会に出たのは3年前の1度だけになっています。


そのとき大体みんなの年齢は65から66歳になっていましたが、弁護士になった2人は関西で弁護士事務所を開業してそのときの会には欠席、公務員になったうち1人は政府機関の一つに天下りしていたところ、事業仕分けの攻撃を受け、事業団自体の存続の危機に直面したが、何とか生き残っているとのこと、あと1人はやはり天下りで1部上場会社の役員、銀行に行った2人のうち1人は銀行からの天下りで会社の役員、1人は完全リタイヤー、商社に就職した私も完全リタイヤー、メーカーに行った3人のうち1人は退職して子会社の役員、もう一人は仕事を継続中でした。(メーカーに行ったうちあとの1人は実は早い時期に亡くなっています。)大学院に進んだ1人は某国立大学の教授でしたが、今は某私立大学の教授になっており、同じ大学で15年間、教授の地位にあると自然に名誉教授の称号を与えられるとか言っていました。ただし、名誉教授というのは称号だけで、給与が支払われることは全くないそうです。完全リタイヤーは私と銀行に行ったもう一人だけという状況でした。大学時代の友人たちも、高校時代のそれと同様に貴重です。

次回は就職してからの話になりますが、まだ生々しい部分もあるので、何をどのように書いていくか検討してみます。

大学時代

大学に入学したのは1968年です。入学時には全員が教養学部に入り、教養課程終了後に、専門学部にそれぞれ進学していくのですが、法学部と経済学部への進学予定者の場合は一くくりで、外国語の選択にあわせてクラス分けされます。大体1クラス50名です。法学部と経済学部への進学予定者は合計で1,000名で、全体では20クラスということになります。このクラスが専門学部に進学した後も、大学生活の基礎になります。


4月に入学して2ヶ月あまりたった6月に、医学部のインターン制度に係わる紛争を契機として、医学部がストに入り、ロックアウトした学生を排除するため、機動隊が学内に導入されたことから、これに抗議して、学生自治会が主導して同月から全学ストライキに入りました。これがそれから長期に渡り続いた大学紛争(大学闘争)の始まりでした。


ほとんどの人はそれほど高い意識は持っておらず、「夏休みが少し早くなるだけ」という意識でスト突入に賛成してしまったというのが実態ではなかったかと思います。


夏休みが終わってもストは解除されず、クラス単位でストを解除すべきかどうかの話し合いが継続して行われました。我々の場合は、クラス50名が、ノンポリ、日本共産党が主導する民青、社青同、革マルなどの影響を受けた全共闘シンパの大体3つに分かれました。人数から言うと民青系が12名ほど、全共闘系が16名ほどで、ノンポリが多数派でした。学生自治会は民青が握っていましたが、学生ストを主導していたのは全共闘シンパで、学外から活動家をそれぞれ導入して勢力を拡大しており、ノンポリ派は積極的にこれらを排除してストを終結しようという動きまでにはなりませんでした。


翌年1月になってやっとストが解除されることになるのですが、約7ヶ月に渡る全学ストライキは言うまでもなく、大きな影響を我々だけでなく社会にも与えました。


学生の社会に対する反乱は日本特有のものではなく、世界各地でも発生していました。後日、いちご白書などで、映画化もされました。第二次大戦後の社会的風潮やベトナム戦争の影響などが背景にあったのかもしれません。


スト中に行っていたことといえば、クラスの有志での読書会、討論、マージャン、トランプなどのゲームでした。昼ごろに学生のたまり場であった学館と呼ばれる生協の食堂に隣接したロビーに三々五々集まり、それからそれぞれのグループを作って移動していくという感じでした。サルトルに代表される実存主義に関するテーマが読書会の中心でした。


この時期の思い出深い場所は学校近くのケンという喫茶店、それから雀荘、渋谷駅のセンター街にあったウイーンという喫茶店、渋谷駅裏のプランタンという喫茶店です。


渋谷のウイーンではトースト、ゆで卵、コーヒーがセットになったモーニングサービスが当時としても安めの通常料金の半額の40円で、そこで読書会や、討論などで1日過ごし、午前中に入ってかんばんまでいたということも1度ならずありました。コーヒーのお代わり等もせずモーニングセットだけで長時間にわたって居座り続ける我々に対して、ウエイトレスは全く迷惑そうなそぶりも見せず、水だけを時折注ぎに来てくれました。


渋谷のプランタンは銀座にもあった同じ名前の系列店で、値段はコーヒーがちょっと高めの150円、街頭で割引券をもらって行ったものです。


ストで授業がなかった代わりに、友人たちとの討論など、授業を超越するいい経験ができたと今では思っています。


今では、少なくても東京には、長時間いられる喫茶店というのは殆ど姿を消してしまっています。安い料金では投資額に見合わないし、高くすると客が来ないということでしょうか。ビジネス モデルとして存在できなくなった業種ということでしょう。

次回は専門学部に進学後のことに触れてみたいと思います。

高校時代4

今年の4月に卒業50年を記念した同窓会が行われました。


高校卒業後、同窓会に出たことはそれまでなかったのですが、たまたま、マレーシアを訪問していた同窓のK君から、「今度4月に行われる卒業50年の同窓会が最後の同窓会になるかもしれない。」という話を聞き、なぜか回顧に耽ることが多くなっていたこともあり、スケジュールを調整して出席しようという方向に傾いていきました。


後日、詳しくご披露する機会があるかもしれませんが、4月に、8年間住んだKLを去り、イポーに移ることを既に決定していたこと、また、3年前になくなった母親の3回忌を8月に実施することが決まっていたこと、また双子として生まれた孫の面倒を4月下旬から3ヶ月間は見なければならないこと、これらのことを考えに入れ、4月始めに日本に一時帰国し、8月上旬にマレーシアに戻ってくるスケジュールをたてました。


高校の同期は男女合わせて400数十名でしたが、なんと3分の1強の約150名ほどが出席しました。


同窓会といってもクラスが違うと殆ど付き合いがなく、顔見知り程度の間柄で、そんな事情もあり、クラスごとに纏まっての歓談になりました。


学園祭で当時流行っていたエレキギターのバンドを作って、ビートルズを弾いたS君は、今でもバンドを編成して時々ビートルズの演奏をやっているという話や、会社を卒業してから大学で教えていて、70歳まで仕事を続けるつもりだという人がいたり、九州からわざわざ東京まで同窓会参加のため出てきた主婦がいたり、警察庁に入ったOさんが2010年に角川文庫で「捜査指揮」という本を出していたことなどが話題となりました。


現況を語ると、互いにやっかみが出たりするかもしれないという配慮からか、話題は昔話が中心で、懐かしい話に花が咲き、二次会も含め、あっという間に時間が経っていたという感じでした。行って良かったと思いました。


私が8月初旬まで日本にいることから、後日親しいグループが7月下旬に別途集まってくれました。


そこでの話題は昔話よりも、現在の話が中心になり、税金対策とか、人間ドック不要論、孫の進路問題など、年相応の現在の話が中心でした。


申告所得を減らすにはどうすればいいか、老い先短いのに人間ドックに入って悪いところが見つかっても治療する必要はなく、寿命に任せたほうがいい、かえって治療の過程で死ぬこともある、とか、今は教育水準が高くなり、私立小学校に孫を入れるにも幼稚園の先生に希望校を言うと、「幼稚園の成績から見て、そこは無理です。」と言われたとか、温暖化の話は一時流行った二酸化炭素排出権の売買と同様にどうもインチキくさいとか、なかなか面白い話題でした。


本音で話せる友人がいることはありがたいことです。しかも同じようなレベルの知的水準の仲間なので、言っていることがよくわかります。ちなみにこのグループは私以外は全員理科系です。


税金対策の話などは興味がある話ですが、本稿ではそれを語ることは趣旨ではないのでここでは割愛させていただきます。


高校時代の友人たちは本当に貴重だと思いました。


次回からは大学時代の話に移らせていただきます。